プロフィール

杉本和巳 (すぎもとかずみ)

  • 生年月日

    1960年9月17日生まれ

  • 本籍

    愛知県一宮市本町

  • 趣味

    夏山登り、カラオケ、テニスなど

  • 特技

    単身赴任時代から手料理

  • 自慢

    地元の道と美味しいお店はタクシーの運転手さん並みに詳しいです!

杉本和巳の年表

  • 1960年

    八百屋の孫、靴下屋の息子の庶民生まれ

  • 1983年

    早稲田大学政治経済学部卒業
    日本興業銀行(現・みずほフィナンシャルグループ)入行。22年程勤務

  • 1991年

    英オックスフォード大学院社会科学特別課程卒業

  • 1992年

    米ハーバード大学院修士課程修了 政治学・国際関係論を学ぶ
    帰国後新日本証券、電源開発などに出向

  • 2005年

    愛知県第10区よリ立候補するも惜敗

  • 2009年

    衆議院選挙初当選

  • 2012年

    2期目の当選

  • 2014年

    無所属で立候補し次点落選

  • 2017年

    日本維新の会よリ立候補し3期目の当選

  • 2021年

    4期目の当選

  • 2024年

    5期目の当選

初志貫徹の政治家人生

2005年に愛知県第10区で民主党から立候補したわたしですが、その後脱原発と身を切る改革が曖昧なため、民主党を離脱。是々非々・対案重視のみんなの党へ入党。同党解党時、日本維新の会へ。いくつかの政党を経験してきましたが、「国民の皆様のために真っ当な政治を実現する」という想いは全く変わっていません。

現在の役職

・日本維新の会衆議院愛知県第10区選挙区支部長
・日本維新の会 国際局長
・日本維新の会 外交部会長
・愛知維新の会代表代行
・外務委員会理事
・総務委員会委員
・犬猫の殺処分ゼロをめざす動物愛護議員連盟

杉ちゃんの履歴書

第1回「和巳」という名前に込められた原点

1960年、東京・文京区に生まれ、名前に込められた「和」を人生の軸として歩み始めました。

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昭和35年(1960年)、東京の下町、上野の北に位置する文京区の駒込病院で、父・杉本秀雄、母・貴美子の三人目の子ども、女男男の順の次男として生まれました。午前中の生まれだったようです。
名前の「和巳」は、父方の祖父母である善作(明治32年生まれ)と、ろく(明治37年生まれ)が名付けてくれたと聞いています。
恥ずかしながら、就職するまで自分の名前を「和己」だと思い込んでおり、「己のまわりに和をつくること」が自分の使命だと感じていました。ところが、戸籍謄本を取り寄せたことで、正式な表記が「和巳」であることを知り、名前の意味をあらためて考えるようになりました。
以来、「以和為貴(和をもって尊しとなす)」の言葉を、「へびの如く粘り強く和をつくる」という自分なりの解釈で受け止め、人生の指針としています。

第2回家系に流れる商いと責任の精神

先祖と家系の歩みが、私の価値観と社会観の原点です。

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大叔父の高山晃は、早稲田大学政経学部の大先輩で、中京テレビ副社長を務めた人物です。昭和天皇・皇后両陛下の初の記者会見に出席し、「皇后陛下にお伺い致します」と質問したことで知られています。
その大叔父が杉本家の先祖を調べたところ、天皇家の伊勢神宮参拝御行幸を管理する重責を担っていた前川姓につながることが分かりました。
五代前の奈良の庄屋・杉本善五郎は、娘・小糸の婿養子として松阪の前川新之助を迎え、その次男である祖父・善作が大正時代に上京。上野の北、千駄木で八百屋を開業しました。
父・秀雄は大学在学中、終戦直後という厳しい時代に、稀有な日本銀行借入を獲得し、靴下の製造販売業を創業しました。
政治の家系ではありませんが、商いと責任を重んじる庶民の家風の中で育ちました。

第3回少年期の体験が育てた政治意識

少年期の体験が、社会や政治への関心を形づくりました。

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小学2年生のとき、横断用の黄色い旗をしっかり握ったまま交通事故に遭い、左右の膝小僧を擦りむきました。救急車は来ましたが、その前にぶつかったタクシーで救急病院へ運ばれたことを覚えています。
4年生の頃には、前髪の長さを理由に担任教師から注意を受け、「かっこいいのがなぜ悪い」と抵抗した結果、切られそうになったこともありました。今思えば、理不尽な出来事だったかもしれませんが、当時は反発心の方が勝っていました。
6年生の卒業文集には、「政治家になってスイスのような永世中立の平和な国をつくりたい」と書きました。また3年生の時の衆議院総選挙では、母に「70代の候補ではなく、若い人に入れてほしい」と頼んだ記憶が、今もはっきり残っています。

小学校6年生卒業式

第4回早稲田実業との出会いと校風

早稲田実業との縁は、必然だったのかもしれません。

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中学は、東京の私立校である早稲田大学に連なる早稲田実業学校へ進学しました。

当初は慶應義塾のハイカラで洗練された雰囲気に惹かれていた時期もありましたが、結果として縁があったのは、どこか泥んこ臭く、庶民的で、バンカラな気質を残す早稲田でした。

早稲田実業は、中学・高校・大学と一貫した環境の中で、多様な背景を持つ生徒が集まる学校でした。
その中で、勉強、部活動、人間関係を通じて、自分の立ち位置や役割について考える時間が自然と増えていきました。

校章に描かれた稲穂が象徴する「実るほど頭を垂れる稲穂かな」という言葉は、当時は意識していなかったものの、振り返ってみると、のちの考え方や行動に少なからず影響を与えていたように思います。

この時期は、まだ将来の進路や生き方が明確だったわけではありませんが、後に続く体育会での経験や、社会・政治への関心につながる下地が、静かに形づくられていった時期でもありました。

早稲田実業学校(中学部)

第5回体育会テニスと、初めての政治の現場

体育会テニスに打ち込みながら、初めて政治の現場を体験しました。

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中学から大学まで、体育会テニス部で10年間活動しました。ただし、私にとってテニスは日が当たる主役の場というより、「陰徳を積む場」でした。
中学では幼少期からテニスを続けてきた慶應ボーイに歯が立たず、高校では全国中学優勝者クラスの選手が並ぶ中、私は選手4人枠の5番目、いわば補欠選手兼ベンチキャプテンとして全国高校総合体育大会に出場しました。 大学でも先輩方は全日本・全日本学生選手権出場者が名を連ね、私は球拾いやクラブ運営など、裏方・縁の下の力持ちに終始しました。連帯責任で在学中に二度坊主刈りになったことも、今では懐かしい思い出です。

一方で、政治への関心は心の底流として脈々と流れていました。
1979年、大平総理急逝に伴う衆参ダブル選挙の機会に、私は初めて政治の世界に足を踏み入れました。東京下町を地盤とする政治家四代目・鳩山邦夫氏の衆議院選挙、ならびに三代目・鳩山威一郎氏の参議院全国比例選挙を、1か月半にわたり泊まり込みで手伝いました。
当時、「5当3落(5億円で当選、3億円で落選)」と言われるほど、お金のかかる選挙の現実を目の当たりにしました。大量の電話かけを行う現場や、1か月半の報酬が破格であったことなどから、八百屋の孫で靴下製造の中小企業経営者の息子という庶民感覚の私にとって、政治の世界はあまりにも浮世離れしたものだと痛感しました。
この経験により、私は一度、政治の道を諦めることになります。

早稲田実業学校高等部3年

第6回政治から距離を置き、基礎を鍛え直した大学時代

政治の世界の現実を知り、一度距離を置いて、自分の足元を固め直すことにしました。

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政治の世界が、想像していた以上に浮世離れしていることを垣間見た私は、大学2年生のとき、体育会テニス部に復帰しました。そして、あらためて新入部員待遇からやり直し、上下関係、礼儀作法、時間厳守といったことを、日々の部活動を通じて叩き込まれました。
その後は、縁の下の力持ち的な役割として、有力選手の精神的なアドバイザーや、厳しくも優しい先輩部員として活動し、4年生の卒業まで部に関わりました。

並行して、4年生の夏から就職戦線が本格的に動き始めました。
私は、世界を股にかけて働きたいという思いから、総合商社を中心に、銀行、電力会社、広告代理店など、多様な業界の有力各社の面接を受けました。
その中で、会う方々が魅力的な人物ばかりであったこと、また世界を舞台に仕事ができることや、業界再編など産業政策にも関われる点に惹かれ、当時の金融界の雄であった日本興業銀行に強く心を引かれていきました。
こうして私は、政治の「せ」の字もない家系の人間として、まずは銀行のビジネスマンとして社会人生活をスタートさせる決断をしました。

銀行のテニス合宿

第7回日本興業銀行での社会人スタート

日本興業銀行で、世界経済の現場に立ちました。

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厳しくも希望を感じる幾重もの面接を経て、就職解禁日の10月1日、日本興業銀行から内定をいただきました。
東大法学部卒業のエリートが居並ぶ当時の金融界の雄である同銀行に入行し、まずは銀行のビジネスマンとして社会人生活をスタートさせることになりました。

社会人として最初の配属は、日本興業銀行本店外国為替部でした。
輸入課に所属し、指導担当の先輩のもとで業務を学びました。着任早々、毎朝ロンドンとニューヨークの外国為替市場の状況を、9時の市場開始前に、取引先の大手商社や石油化学会社へ電話で連絡する仕事を命じられました。

輸入に関わる外国為替担当として、資源のない日本にとって不可欠な石油や石炭などの輸入に伴う、円とドルの交換、資金の送金、場合によってはドル資金の短期貸付まで業務は広がっていきました。
取引金額は1取引10億円単位で、瞬時に値段を決める必要がある、緊張感の高い仕事でした。

外国為替部内では、輸入業務のほか、総務・企画部門での裏方業務も担当しました。
頭取出席の役員会資料となる実績数値の管理や、相場見通しの概説作成などにも携わりました。

入行後3年半は、1ドル240円から170円台へと円高が進んだ時代であり、昭和60年9月22日のプラザ合意の日のことは、今でも明確に覚えています。 そのような中、ある日、部長から「来月から本店人事部へ行ってもらうよ」と告げられ、突然の異動辞令を受けることになりました。

第8回人事部異動と人材育成の現場

人事部への異動を機に、研修と採用を通じて人を育てる仕事に携わりました。

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入社4年目、突然人事部への異動となりました。本店7階から10階への物理的な移動でしたが、東京・恵比寿にある研修所での当直勤務も伴い、仕事の中身は大きく変わりました。業務は研修が主で、採用がそれに次ぐ位置づけでしたが、いずれも地道に取り組みました。

採用業務では、後に楽天社長となる三木谷浩史さんの採用の最初の取っ掛かりに関わりました。
確か夜中の2時頃、メモに「一橋大学テニス部
三木谷」と書かれているのを見て、テニスの縁を感じ、即座に電話をかけました。彼は寝ぼけ気味に「明日は試合だ。すでに△△銀行に内定している」と話していましたが、就職は将来への大きな節目であり、試合が終わってからでも構わないので一度立ち寄り、同業他社も見ておいた方がよいのではないかと、社会人の先輩として本音を伝えました。結果として彼は興銀に入行することになります。

研修の仕事では英語教育に力を入れました。新入社員には入社前に国際テストを受けてもらい、その成績を事前に申告させました。入社後の研修では15室にクラス分けし、ネイティブの先生による英語レッスンを行いました。
三木谷さんは、その中の □□番目の一番端の部屋 で研修を受けていました。この配置が、結果として彼にとって大きな発奮材料になったのではないかと、今振り返って感じています。のちにハーバード・ビジネス・スクールへ留学し、英語を軸にした経営を展開していく姿を見るにつけ、当時の研修の風景が思い出されます。

また研修業務では、市場感覚の養成と適材の発掘を目的に、外国為替ディーリング研修を立ち上げました。社内外から評判となり参加希望が殺到し、当時は極秘ながら、為替介入の当事者である日銀担当者や大蔵省の介入責任者も参加しました。
人事部には丸4年勤務し、その間、海外経験のないハンディキャップを補うため、夜は週2回、英語学校に通い続けました。そして社内留学生試験に合格し、海外から日本を見る機会へとつながっていきます。

2025.12.10 新経済連盟主催セミナーにて(講師:三木谷代表・楽天社長)

第9回留学への決意と「言霊」になった一言

時代のうねりの中で、留学と政治への志がはっきり形になっていきました。

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帰国子女であった同期たちは、2年間の留学を終えて次々と職場に戻ってきていました。小学校と大学の同期で、銀行では一期下の藤川大策君(後に外資系証券会社社長)もその一人で、プリンストン大学院から帰国していました。
私はその間、人事の研修の仕事をしており、人前で話すことが好きだという自分を、あらためて再発見していました。

また当時の世の中では、細川護熙熊本県知事が『鄙(ひな)の論理』を著し、地方から改革を進める流れ、自民党に代わる政党への胎動が起き始めていました。
私は、政治家の家系ではない「八百屋の孫、靴下屋の息子、サラリーマンの本人」でも、お金がなくても政治の世界で活躍できる世の中に変わる兆しを感じ始めていました。

ある昼休み、藤川君とランチを共にした際、何の拍子だったか「俺、オックスフォードとハーバード行って実力をつけて政治家になるよ」と大言壮語してしまいました。維新の「有言実行」ではありませんが、その言葉が言霊のように、自分の背中を押し続けることになります。

英語の勉強に励み、銀行内の留学生試験にチャレンジして合格しました。
その上で、銀行の1年先輩でオックスフォード大学院卒の高田創氏(先日までテレビ東京・テレビ愛知「WBS」コメンテーター)からの助言も得て、願書を提出し、オックスフォード大学院への入学の機会を得ました。

第10回オックスフォード大学院の厳しさ

オックスフォード大学院では、学ぶことも卒業することも想像以上に厳しい経験でした。

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海外の大学・大学院は、卒業が大変でした。オックスフォード大学院は3学期制で、1学期に2科目ずつ、合計5科目を選択し、「チュートリアル」というマンツーマンの授業で学びました。 経済分野の2科目は図表や理論が世界共通で比較的理解しやすかった一方、政治社会分野の3科目は、欧州政治思想史の詳細を十分に知らないことに加え、担当教授の話す英語が、イギリス人ですら聞き取れないほどの超早口で、難解でした。
卒業試験は3学期分をまとめて最終学期に行われ、1科目につき3時間の英語筆記試験を5科目。午前午後に分け、合計3日間、書きっぱなしの試験でした。マントを羽織り博士のような帽子をかぶり、持ち込めるのはボールペン1本。会場は「エグザミネーション・スクール」という、年に一度試験の時だけ使う厳粛な校舎で行われました。
試験前はややノイローゼのようになりましたが、綿密な準備と動物的勘が功を奏し、「この試験を受けている日本人は私だけだ。杉本がんばれ!」と自らを鼓舞したこともプラスに働いて、何とか6月に卒業証書を手にすることができました。 なお試験前の1〜2月は、ハーバード大学ケネディ政治行政大学院への願書づくりも重なりました。イギリスの冬は午後4時頃から朝8時過ぎまで暗く、夜の長い時期で、机に向かい続けた日々でした。

オックスフォード大学院入学

第11回湾岸戦争を欧州から見て

湾岸戦争を欧州から見つめ、日本の国際報道の見え方を考えさせられました。

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オックスフォード大学院で学んでいる間に、世界では湾岸戦争が起きていました。世界の動きをヨーロッパから見ていると、日本の海外報道が米国中心に偏り気味であることに気づかされました。
当時、日本は海部総理と橋本蔵相が90億ドル(約1兆2,000億円)の拠出を決めていました。日本の新聞各紙は「アメリカは少ないと言っている」と盛んに報道しましたが、イギリス議会では「日本は凄い金額を出している。それに比べてドイツは少ないではないか」と議論されていました。
またイギリスでは、欧州の庭先と評されるアフリカのことが多く報じられていました。海外と言えばアメリカ、という意識に偏っていた自分も含め、日本の発想の転換が必要だと強く体感した出来事でした。

第12回ハーバードへ直談判に行く

「意志は世界に通じる」との思いで、湾岸戦争下にハーバードの門を叩きました。

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「意志は世界に通じる」との思いを胸に、湾岸戦争の最中に、ハーバード大学ケネディ政治行政大学院へ直談判のため大西洋を渡りました。 当時ヒースロー空港にはマシンガンを持った軍人がそこかしこにおり、緊張感がありました。出国管理官から「ハーバードに行く許可証を見せろ」と言われ、「直談判だから入学案内しかない」と説明して説得したことも、今では笑い話です。余談ですが、自分の食事として持ち込んだおにぎりは没収されました。
氷点下10度のボストンで、ケネディスクールのアドミッションオフィス(入試事務局)を訪ね、「是非入学を認めてほしい」と直談判しました。
また友人の紹介で、当時すでに在籍し生徒会を務めていた斎藤健さんとも初めて出会い、5時間ほど日本政治の問題点などを話し合いました。後になって、斎藤さんが私を推薦してくださっていたようだと知りました。

第13回合格通知とハーバードでの授業開始

志望動機を問われ、「Statesmanになりたい」と答えたことが転機になりました。

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ボストンからイギリスに戻ると、アドミッションオフィスから電話があり、志望動機を尋ねられました。
私は、利権政治家「Politician」は日本にたくさんいるが、国のために真に働く政治家「Statesman」になりたいのだと強く訴えました。「わかった」と返事をいただき、その後4月25日に合格通知が届きました。
ハーバード大学院では7月に入学前のサマースクールがあり、経済の勉強のために数学の授業も受けました。3次元の関数の授業で、私がX軸・Y軸に加えてZ軸を図解して黒板で説明したところ、世界各国の学生が驚いたことも、印象に残っています。
9月からは、ケーススタディなどを織り交ぜた本格授業が始まりました。

第14回錚々たる教授陣と、90分講義の経験

米英の第一線の教授陣から学び、日本の制度を説明する機会も得ました。

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ハーバードの教授陣は錚々たる顔ぶれでした。
労働大臣経験者のシャーリー・ウィリアムズ女史、後にクリントン政権で労働長官となったロバート・ライシュ氏、初代学長のグレアム・アリソン氏、2代目学長のジョセフ・ナイ氏、カート・キャンベル氏、アシュトン・カーター氏など、まさにオールスターから薫陶を賜りました。
授業で特に印象深いのは、人事マネジメントの授業で、日本の人事システムと年金の仕組みについて、教授から「90分間まるまる講義をするように」と言われたことです。準備して臨んだ講義を、世界から来たクラスメイトが集中して聴き入ってくれた光景は、忘れがたい経験です。

第15回欧州を巡り、暮らしと価値観を見つめ直す

論文提出後、欧州各国を巡り、国ごとの暮らしや価値観の違いを自分の目で確かめました。

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ハーバードの卒業試験は論文形式を選択したため時間ができました。論文提出後、数週間、ロンドン経由で東側から欧州をリュックサック一つで巡りました。
英国では偶然、国会開会式に向かうエリザベス女王のお姿を拝見できました。
旅はトルコから始まり、ギリシャ、イタリア、オーストリア、チェコ、ドイツ、スイス、フランス、スペインへ。田舎の人は気さくで優しいという共通点を感じる一方、庶民の暮らしぶりは国ごとに大きく異なることを目の当たりにしました。
共通通貨ユーロ流通前の物価の違いも体感しました。スイスでは、当時から電気自動車しか街中を走れない山岳都市ツェルマットを訪ね、環境の取り組みを実見できたことは、後の質疑にも生きることになります。 その後、米国へ戻り、論文が受理されたことを確認し、修士課程を修了しました。

第16回市場の最前線で問われた判断力

帰国後は市場部門に戻り、国債取引の現場で、判断の重さと市場の責任を学びました。

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ハーバードの修士課程を修了した後は、ニューヨークで2週間研修を受け、帰国後、日本興業銀行本店市場営業部へ配属となりました。
日銀短観の動向、刻々の世界情勢を睨みながら、外国為替以上に巨額取引となる国債の売買を担当しました。国債売買とは、一瞬にして変わる金利の世界です。取引先は日本生命や、同業のさくら銀行(現三井住友銀行)など。100億円、200億円といった単位の取引が日常でした。
最も記憶に残るのは、当時の宮澤総理が公定歩合の引き上げを発表し、国債相場が暴落、長期金利が急上昇し、当時4%割れの3.9%国債の買い手がつかず、1時間以上取引が成立しなかった時のことです。市場が値付かずとなる中、何とか日本生命を説得し、200億円の取引を一気に決めました。その取引が市場メカニズムの回復につながり、同時に自社リスクの軽減にもなりました。 金利変動リスク、そして相場不成立が招く市場機能の崩壊の怖さを体感したことは、その後の議論の礎となっています。

第17回新日本証券への出向と「証券の洗礼」

興銀系列の証券会社へ出向し、銀行とは違う現場の厳しさを肌で学びました。

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夏の定期人事異動で、2年先輩の後任として、興銀系列の準大手証券会社・新日本証券(現みずほ証券)へ2年間出向しました。阪神淡路大震災やオウムサリン事件が起きた、バブル崩壊後の時期です。
担当は東海エリア(愛知・三重)で、無借金経営のトヨタをはじめ、カゴメ等の優良企業、名古屋・愛知・中京・第三などの地銀、各信金、JA・信連・共済連など農協系金融機関に対する債券投資営業でした(主に電話取引、年に数回訪問)。
印象に残っているのは、中京圏は預金残高が厚く運用資金が潤沢であること、そして「初めてお客様に怒鳴られた」ことです。着任早々、御茶ノ水のディーリングルームで電話を取ると「あるか?」の一言。銘柄を尋ねた途端に「バカヤロー、わからんならえーわ」と切られ、取引先名も聞けず唖然としていると、隣席の同僚が「○○信金の□□次長。口は悪いが根は優しい商売人。銘柄は△△製鋼、金額10億。瞬間蒸発に近い新規発行社債だから、分は用意してある。詫びて折り返せば大丈夫」と教えてくれました。
即座に電話を折り返し、証券会社の現場のスピードと厳しさ、そして銀行との違い(当時、銀行は国債中心、証券は国債に加え社債など全銘柄を扱う)を体感する貴重な経験となりました。

第18回興銀証券での海外政府取引と社債発行

国債先物の海外政府取引から、社債発行の資本市場業務へ。緊張感の連続でした。

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1995年の株主総会期の定期異動で、新日本証券から興銀証券へ(後に合併し現みずほ証券)移りました。まず担当したのは国債先物取引の海外政府担当で、シンガポール政府運用部やマレーシア通貨庁から、時々刻々と注文を受けました。英語での聴き取りと、誤りの許されないマーケット発注に緊張しっぱなしの日々でした。
その後、同社最大の収益獲得部門である資本市場部へ。メインバンク取引先の社債発行営業を担当し、東北電力・中国電力・日本曹達・宇部興産など、電力・化学企業の国内社債や外国債券発行(直接金融)に携わりました。 特に記憶に残るのは、東北電力債の発行に向けた企業宣伝(IR)で、約2週間、副社長らと欧州投資家を訪ね、ロンドン、チューリッヒ、フランクフルトを巡ったことです。結果、社債発行は順調に進みました。
出張前に当時の東北電力・八島俊章社長(理系出身)から聞いた「原発は地殻検査をきちんとし、固い地盤に建てる。女川は津波の被害を受けにくい高い岸壁の上にある」という言葉は強く印象に残り、東日本大震災で女川が無事だったことを知ったとき、真っ先に思い出しました。

第19回欧州で見た「契約社会」と日本の有り難さ

欧州での体験が、社会の仕組みと日本の価値を考える材料になりました。

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余談ながら、ロンドンのコンノートというコンパクトな最高級ホテルで、朝、副社長用の車を車寄せで待っていたとき、ロールス・ロイスが次々と到着し、シルクハットの紳士やロングドレスの淑女が乗って出ていく光景を目の当たりにし、「これが貴族社会か」と驚嘆しました。
また2週間、こってりしたフランス料理が続き胃が参っていたところ、最終訪問地フランクフルトで冷や奴を口にでき、醤油の味と日本の有り難さが身に沁みました。
もう一つ強く印象に残るのは、日本曹達の「株式強制転換権付社債」という目新しい外国社債の発行にあたり、10cmを超える分厚い英文契約書を国際弁護士の力を借りて作成し、発行を成就したことです。欧米が徹底した契約社会であり、あらゆる可能性と責任の所在を明確にする文化であることを、実務を通じて体感しました。

第20回電源開発出向、融資現場、そして「現場主義」

銀行員としての実務と現場経験が、のちの政治姿勢の土台になりました。

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1997年夏、電源開発(現Jパワー)へ2年間出向し、民営化に向けた政府財政投融資資金2,000億円を民間資金へ借換える仕事を担当しました。銀行員というプロの身分を隠し、各銀行・生保と低金利での厳しい条件交渉を行いました。
また同社が経産省指揮下で初めて手掛ける下北半島先端部・大間の原発建設計画について、「維持管理と危険性を踏まえると実質的にコスト大で経営リスクになる」と指摘し、漁業補償交渉の段階で中止すべき旨の報告書を提出しました(後に震災で建設中断)。
その後、興銀に戻り東京営業部融資課長、札幌営業部次長として融資営業に従事(モスバーガー、北海道銀行など)。当時、銀行による取引先株式保有の弊害が問題視され、取引先株式を売却する辛い交渉を迫られたことが印象深い出来事です。
さらに山本釧路信金理事長から、政治家・鈴木宗男氏が1993年釧路沖地震の当日に現場に入り陣頭指揮したという話を聞き、政治における「現場主義と行動力」の重要性に感嘆しました。後に自分が北方領土へ現地入りを重ねた際、この話が発火点になったと感じています。
北海道勤務の後は持株会社の広報部で海外広報(WSJなど海外特派員対応)とCSRを担当。全国の小学一年生に黄色いワッペンを配り交通安全啓発を行ったことは、懐かしい思い出です。

初代ソビエト連邦大統領ミハイル・ゴルバチョフ氏と

第21回政界の門を叩く

40代で「自分が政治家になる」決断をし、公募に挑戦しました。

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政界に挑戦する直接の契機は、民主党が2004年春に行った衆議院議員候補者募集(公募)の新聞全面広告(朝日・読売)でした。履歴と志望理由を提出し、当時叫ばれ始めていた財政危機、通勤ラッシュに消耗しながら懸命に働いても「うさぎ小屋」と揶揄される程度の家を持てるかどうかという社会の矛盾を、何とかしたいと考えました。
本来なら立派な政治家が現れて解決すべき課題だと思い、22年近くビジネスマンとして働いてきましたが、40を越えても世の中が一向に良くならない。ならば、サラリーマンとして家を一軒持つより、自分が政治家になって日本を建て直す方がベターではないか、と考え公募に応募しました。
書類選考ののち「候補有資格者」の通知が届き、希望選挙区の照会に対して、かつて東海エリアを担当した縁もあり「愛知県第10選挙区」を第一希望としました。
選考は2日間で、1日目は熱海で国会議員との1対4面接、2日目は名古屋で地元議員との1対1面接。後から聞いた話では、採点方式の中でほぼ満点に近い評価を得て選ばれたとのことでした。

第29代駐日米国大使 キャロライン・ケネディ氏と

第22回厳しかった選挙、そして「身を切る改革」

敗北と浪人を経て初当選。初仕事から「身を切る改革」を実行しました。

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選挙は甘くありませんでした。約半年間、駅前に毎日立ち、マイクで訴え続けました。 「政治とカネ」を改めるには、新しいタイプの政治家による政治、すなわち「庶民による庶民のための庶民の政治」が必要だと訴えましたが、当時の小泉純一郎総理の「命をかけて郵政民営化を行う」というフレーズが共感を呼び、敗れました。比例復活も叶わず、政権交代選挙まで4年間の浪人となりました。
この4年で、地道に活動することの大切さを体得しました。軽自動車で細かな路地まで走り、歩き回り、地域の細部が見えるようになっていきました(後年の浪人期間にも、謙虚さと「お一人おひとり」の大切さを再認識しています)。 2009年8月30日、172,401票という大きなご支持をいただき初当選。初めて万歳三唱をしていただいた日でもあります。
初仕事は、当選が8月30日で在職2日しかないにもかかわらず、8月分の歳費が満額支給される問題を指摘し、「不労所得は頂けない」と歳費を預託したことでした。日割り支給への切り替えを提案し、その後の法改正につながりました。この件は「朝ズバッ!」でも取り上げられ取材を受けました。
預託金は地元団体等へ寄付できないことを確認し、東日本大震災のため、地元支店のない中央共同募金会(赤い羽根)へ全額寄付しました。

2009年 初めての国会登壇

2017年 衆議院議員選挙にて

みのもんたさんが「朝ズバッ!」で
「杉本えらい!!」と褒めてくれました!

第23回震災とコロナ禍、「百聞は一見に如かず」

国会議員として最も印象深いのは、震災とコロナ禍での現場経験です。

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国会議員となって強く印象に残るのは、何と言っても震災とコロナ禍です。 東日本大震災では、発災後間もなく、預かった救援物資とともにトラックで東北沿岸部へ現地入りしました。現場に入ると、津波がどれほど高く、どれほど強く入江や街を襲ったか、映像で見た状況をはるかに超える惨状を目の当たりにしました。
また福島第一原発については、許可が出た直後のタイミングで、東日本大震災特別委員会の理事会メンバーとして党を代表し、被ばく線量を測りながら発電機近くまで実視しました。まさに「百聞は一見に如かず」で、放射線量の桁違いの増大を体感し、アンコントローラブル(コントロール不可能)な原子力の脅威の実態を実感しました。
新型コロナについても、「武漢ウイルス」「春節」と言われた早い時期から、予算委員会理事会メンバーとして委員会質疑や本会議で繰り返し登壇し、政府と自治体の連携強化、手洗い等の基本的予防行為の徹底、治療薬・ワクチン手配の重要性を強く訴えてきました。
原発事故もコロナ禍も、社会構造変化のトリガー(きっかけ)であり、私たちは足元から暮らし方を見つめ直す機会を与えられているのではないか、そう考えています。維新では党内オンライン会議、官僚とのオンライン面談、党大会でのネット投票などを先駆的に実践してきました。
私は、時代の変化を的確に捉え、日本が地球に貢献する平和で先駆的で健全な国となるよう、微力ながら日々精進し努力してまいります。今後ともご指導ご鞭撻を衷心よりお願い申し上げます。

2017年 衆議院議員選挙にて

徹底的な現場主義

東日本大震災

北方領土

ヨルダン難民キャンプ

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